2002年7月号

 東京のど真ん中で、毎日を過ごしていると、本来ならば当たり前でないことまで当然のこととして体が慣れきってしまうことがあります。その一つが「水」。水資源が豊富な日本人は世界でも一番良い水を飲んできたのですが、その豊かさゆえその貴重さ、限りある資源だという意識が薄くなってしまったのかもしれません。

 私は、2000年の春、アフリカのモザンビークという国にNGOの活動の一環で訪問していました。折しも、そのときモザンビークは今世紀最悪といわれる大洪水に見舞われていました。そんな中、私は活動仲間と貴重な共同生活を過ごすことになったのです。共同生活の場所では、もちろん水も電気もなかったのです。そこで、一番困ったのは「水」でした。”水道の蛇口をひねれば水が出る”という生活に慣れきってしまっていた私にとっては大きなカルチャーショックでした。その家には、川も井戸もなかったので(ちょっと離れれば多くの家屋が浸水しきっていたというのに・・・)、親切にも近所の水道の出るお家の方がいつも大きなポリバケツに水を汲んできてくださっていました。そこからの水のありがたみを感じる日々は続きました。シャワーを浴びるにも仲間の提案でひっくり返したペットボトルを簡易シャワーにして一人一本で浴びるという毎日。最初に少しだけ髪を湿らせて、髪を洗ったシャンプーの泡で体を洗い、残った水で洗い流すのです。最初はそんなペットボトル一本でシャワーを浴びるなんて到底無理だと思っていましたが、慣れると案外なんてことないんですよね。お皿を洗うにも洗い専用のおけと、すすぎ用、最終すすぎ用というようにわけて工夫して洗いました。自然とみなが極力お皿を汚さないように、最低限の食器での食事となりました。

 そんな生活を一ヶ月体験して帰ってくると、それまでの自分の水の無駄遣いに自分でも唖然・・・。シャワーを必要以上に流していたり、お皿を洗うにも無駄に使っていたり・・・。それまでの私の体に染みついていた水がいつでも、いくらでもあるという感覚ががリセットされました。

 今の日本の現状を見ると、生活排水(合成洗剤や油の垂れ流し)、工業廃水からの重金属類(鉛や水銀など)の排出、農薬や除草剤の大量使用などから私達の大切な水は確実に劣化していってます。そのために大量の塩素で消毒しなければならない水になってしまったのです。自然の賜である水にも限界があり、いつまでもきれいな水があるわけではないのです。日本のことわざには”水”を使ったものが多いですが、今までは”水に流す”ことが許されていたかもしれませんが、今やもう”水に流してはいけない”時代になってしまったようです。今日も一日水に感謝して大事に使いたいですね。

(荻窪本店 森川 愛)