2004年4月号



 第12回 文:稲津恒巳
 JAC(有機農産物の流通組織;第5回参照)の流通に、小売りとして結集した素人八百屋の仲間たちは、楽しい自由かつ達な連中ばかりで、週末ともなると、行きつけの飲み屋で夜の更けるのも忘れ、仕事の話、政治の話、農業の話、家族や恋人の話に盛り上がったものでした。

 なかでも有機八百屋というベンチャー事業をどう成功させ、自分たちが日頃抱いてる夢や思いをどう実現させるか、が常に主要なテーマでしたが、そうした会話の中で私は、この素人八百屋の青年たちの精神の純朴さと、質素な生活スタイル(皆酒にはめっぽう強かったように思いますが)、素朴な自然観、個人生活をそこそこ賄うに足る小さな野心、という自己を飾らない姿に随分心を打たれたものです。

 それは、高度経済成長の真っ只中の競争社会の中で、全てが金儲けで収斂されていくことを拒絶し、自然の中で人間らしい生活をしたいという価値観が、彼らの生き方の底辺にあったからでしょう。そして、彼らは有機八百屋という業態を通して各自の思いを遂げ、その先に農的暮らしを夢見ていたのです。

 80’年代の始め、JACの流通に八百屋として関係したメンバーは、個人、グループを含めて約70名ぐらいいたと思います。当時の有機八百屋は、「八百屋+自然食品店」、という展開と「中古トラックによる移動販売」との2つのスタイルがありましたが、多くの八百屋仲間はまだ店舗で展開するほどの経済的余裕がなく、中古トラックでのひき売りが主流で、いずれは店舗を作り、そこを拠点に営業活動をしていく、という構想を抱いていました。

 また、最初から倉庫的?店舗を構えた人達にとっても、店舗販売だけで自立して行くには経済的余裕がなく、外部への宣伝もかねて、トラックでのひき売りで経済を賄う状況でした。後は有機八百屋の事業を継続させ、成功させるための強固な決意と商品知識を得て、販売の技術に習熟するだけだったのです。(なぜこのような回りくどい表現をするかといえば、6、7年後には櫛の歯が欠けるように半数のメンバーが八百屋として経済的自立を獲得できず、廃業せざるを得なかったのです。)

 私もグルッペを立ち上げた頃、朝6時に起床して、JACの流通センターがある府中で野菜を仕入れ、週の3日間をライトエースの中古車で引き売りに頑張ってきました。しかし、全くの素人八百屋がいきなりの移動販売ですから、些かの戸惑いと恥ずかしさをなかなか払拭できず、慣れるまでには何ヶ月もの時間を要しました。かつてのちり紙交換車の如く地域を巡回しながら、ライトエースに付けたスピーカーで地域の住民の皆さんに呼びかけてお得意さんを確保するには大変苦しい思いをしました。

 いきなり目的の地域で呼びかけても、氏素性も分からぬ何処の馬の骨がいわゆる無農薬野菜を販売に来たのか、と誰もが冷ややかな目つきで通り過ぎていく感じだったのです。そこで、そうした疑惑を晴らすため、私たちの野菜の説明と屋号を入れたチラシを作り、「毎週何曜日の何時にこちらの場所に販売に来ます」と事前に宣伝した上で、当日行くわけですが、スピーカーで訴えても何の反応もなく、全くの手持ち無沙汰でショボショボと引き上げるケースが、何回も何回もありました。

 しかし、こうしたことにめげず数ヶ月頑張っていますと、中には興味本位でお買い上げ下さるお客様が一人二人と現れるようになり、大いに力づけられました。「継続は力なり」という言葉を改めて噛みしめたものです。こうして1年2年と続けているうちに、お客様の方からご自分の友人、知人を紹介してくださるようになり、暫くは八王子から都心の青山、渋谷、南は経堂や千歳船橋など走り回るほどに成長、拡大しました。その後、店舗での少しずつの売上の増大とあわせて、種々の都合から引き売りでのお客様には電話での注文で配達方式に転換したのでした。

 そうこうするうちに経過する時間の流れのなかで、同じような思いを抱いて始めた八百屋の仲間は、各々の当事者の経営力を問われ、そこそこの経営実績を作り上げた八百屋と、なかなか浮上できない八百屋、ギリギリのところで頑張っている八百屋、と店舗間の格差が次第に顕著になってきました。中には何百万円もの仕入れ代金を未払いのまま、JACに金銭上の負担を強いた八百屋仲間もいたのです。

 当時のJACの経営規模からすれば大変な負担で、私は深い同情を寄せていました。また、決して豊かでない経営環境の中で、八百屋仲間が一人でも多く経済的自立をできるようにと、朝から晩まで物流面で頑張っているJACのメンバーの皆さんには本当に心を打たれ、頭の下がる思いで、深く感謝しておりました。

 それだけに、JACからの店舗(倉庫的)の再建要請があった時、即座に未払い代金ごと債務を引き受け、屋号をグルッペ調布店として再建に力を尽くしました。JACの経営改善にいくらかでもグルッペとしてお役に立てれば、という強い想いが功を奏して、また素晴らしいスタッフに恵まれたこともあり、3年後には引き受けたときの4倍の売り上げ実績を作ることができました。

 経営が安定軌道に乗った4年後、経営が行き詰まった別の店舗のオーナーからまた再建の依頼を受けました。スタッフの確保の件もあり、最初は断わりましたが、再三の強い要請で引き受け、その店も無事再建することができました。その後いろいろな事情で、その店舗は関わっていたスタッフに譲渡したのですが、当時の私の願いは、売上の拡大を通してJACとの取引量を増し、経済面でJACを支えていこうという思いだったのです。

 そしてこうした経験は、その後別の縁があって開店した三鷹店や吉祥寺店の店造りに大いに役立ったのでした。

(代表 稲津 恒己)

次号へ続く…