2004年2月号
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文:稲津恒巳 |
| このオーガニックの世界に関わる生産者、製造者、流通を担う皆さん、そして小売の私達。お客様方お一人お一人の関係を強め、生産、製造、そして流通、消費まで一本の赤い糸によって結ばれた有機的関係を持つ小宇宙とすることが私たちの願いです。この小宇宙は、いつも閉じられた世界ではなくその志を共有できる人々にとっては開かれた世界であるべきだと思います。 そしてその為には、店頭に並ぶ商品一つ一つに責任を持ち、絶えず品質濃度を高めていくことが私たちの義務だと考えております。 安心、安全、美味しさを前提としつつ、その商品の生産、製造過程が絶えず環境保全に配慮され、さらには有機農法、自然農法の普及と拡大への努力が裏打ちされていなければなりません。 農業は自然的条件の中で作物を人工的に作り上げ続けるものですが、その地域の環境保全は農業者の健康な「土壌造り」を通して為されていくものです。そうした農業者を積極的に支援していくことは、私たちの使命だと考えております。 ‘70年代、‘80年代の高度経済成長の中で「大量生産、大量消費」という経済感覚を、生命を育む農業生産分野まで押し広め、農地の大規模化(畜産業、酪農においても)、さらには生産性を上げるための農薬と化学肥料の大量散布、そして効率を求めるあまり、生産者、流通、消費者が、それぞれの思惑で互いに孤立してしまった事が、今日の日本の農業の衰退、荒廃につながってきたのだと私は考えています。 当時の農業の近代化対策は各地方、各地域において土壌に力があるうちは生産性が上がり、また農業者を厳しい労働から解放してきたことは事実でした。しかし、農薬と化学肥料の大量投与は、5年10年と経過するごとに土地の生産性を確実に減退させてきた事を多くの農業者は告白しています。 しかもこのような土地で生産された農産物の生命力の弱化は、個々の農産物の奇病を発生させ、その病気止めに更に種々の薬剤を投与するという悪循環を作り上げ、農薬使用による農業者の健康被害も深刻な事態となってきたのでした。 このような質の劣化した農産物とそれらを様々な食品添加物を用いて加工した食品は、人々の健康被害の原因のひとつとなり、今や年々の国民総医療費は約30兆円という膨大な金額になっているのです。(この金額がイギリスの国家予算とほぼ同等だという事はまったくの驚きではありませんか。) 今日、病気への心配と恐怖、特にガンを患いガンで死んでいくことを宿命論として考えている人々のなんと多いことでしょう。その原因の多くが日常的に食する粗悪な食べ物にあることを知れば、病院や各医院を一大産業として活性化させることも無いだろうと考えるのは私だけではないでしょう。 食べ物の質が劣化するのは、それらを生産・製造する農業者や農協、各メーカーが無知で無自覚であること、生命を育むという根本的な視点が欠落していることが原因だと私は考えています。 そして、滋養としての食べ物の製造を、単に腹を満たす「食い物一般」で捉え、その質を問うことなく美味しそうに作る、美味しそうに見せる、という生産・製造技術で終わらせているからに他なりません。このような加工方法は本物ではないのです。 これでは食糧生産に従事する人々にとって「作る」「造る」 いう喜びや、充実感、満足感、誇りという感性は湧きようがありません。食糧生産を担う人々には、法律基準に合致しているから充分だ、という発想ではなく、それを食する人々のことを思いやる気持ちが大切なのです。 収穫物の農法に、品質に、さらには産地の環境保全に互いの意識を高めあう気持ちと、産地と消費地、生産者と消費者が互いに支え合う気持ちがあれば、また、物の流れにメッセージを沿え、顔の見える関係性を作り上げれば既存の農産物の流通も、もっと違った形態が可能性としてあったのではないでしょうか。 いわば、産地で生産された収穫物は消費地の私たちへのメッセージそのものなのです。互いを支え合う、互いの熱い思いを交わしあう。この関係はなんと素晴らしいことではありませんか。 農業生産は人の手を通して大地で光と水によって成し遂げられる共同作業です。そして生産物は環境条件、気象条件によって規定され、左右されます。有機農法、自然農法においてもその制約からまぬがれる事はできません。 農産物の一つ一つの品々が、姿、形、味において立派に生産される年もあれば、温度条件、降雨条件によって不作や不出来の年もあるのです。(昨年の梅雨時期から9月いっぱいの長雨は、列島全般に大きな被害をもたらしました。)そうした時に我々消費者が産地や生産者の立場を思いやる気持を持つことは生産者にとってどんなに勇気づけられることでしょう。 次号へ続く (代表 稲津恒巳) |