|
|
| グルッペの開店以来、成田空港のど真ん中で有機農業と養鶏を営む、島村正治さん富士子さんご夫妻とは、今日まで26年のおつきあいをして頂いております。毎週1回、卵と野菜を配送してもらい、グルッペの店頭に並ぶわけですが、今では「島村さんの作った野菜」という表示で、多くのお客様からご支持を頂いております。 島村さんが栽培する野菜の特徴は、どんどん品種改良された種を使用するのでなく、昔からある品種の種にあります。どの野菜も味が濃く、それぞれの個性が際だっているのに気づかされるのです。特にキュウリやピーマン、キャベツ、枝豆などは、一度食べればそのうまさに感動させられます。それは30年間、農薬や化学肥料を使用していない土壌に年輪を重ねた栽培技術の賜物なのでしょう。 そうした島村さんの営農姿勢に共感を抱いて、グルッペ開店当初は、毎日曜農作業のお手伝いにガタガタのライトエースを走らせて通ったものでした。一日の作業の終わりには、畑から穫ってきた新鮮な野菜で富士子さんが調理してくれたおかずに、冷えたビールを一杯飲み、ひと時の団欒として爽快感と充実感を得たものです。それは店頭に並べてある野菜と向かい合い、その生産に関わっているという心の張りでしょうか。土にまみれ、季節の流れの中、いろいろな野菜の成長と収穫を愛でるということは、この荻窪の八百屋で儲かった、儲からない、といったこと以上の何かを感じさせてくれたからです。子どもの頃、田舎の田園風景に囲まれながら、植物の生長過程に関心を寄せることなく、植物が花を咲かせ実のなることにさえ驚くことのなかった自分が、今こうして栽培する野菜の一葉一葉に目を凝らし、1週毎のその生長に目を見張り、昆虫やクモの生態に関心を寄せるようになった自分を発見して驚いたものでした。そして「農」というのは正しく生命の連鎖なのだなと実感したものでした。 そんな折、成田三里塚の生産者の野菜を販売している同業の仕事仲間「ピーナッツハウス」の櫛田寒多君、「子ブタの家」共同保育している中尾君たちと知り合ったのです。我々三者は、援農というお手伝いだけでなく自分たちで畑を開墾して、いろんな野菜を栽培してみようと意気投合して、「三里塚俄百姓組合」という名称をでっち上げ活動を始めたのです。別に細かな規約があるわけでなく、来るもの拒まず、会の維持の資金は共同負担というだけでの、ルーズな組合だったのですが、野菜を栽培する以上、最低週一回は畑に来て管理しなければなりませんでした。そしてその畑とは、2m以上のセイタカアワダチソウが繁茂する空港公団用地だったのです。 当時は空港反対派農民と、それを支援する各政治団体と空港公団の対立が厳しい関係でしたが、農民が売却した空港予定地の土地や山林は有利鉄線やフェンスが張られているわけではなく、島村さんの農地に隣接する土地は出入り自由の開放されたままの状態でした。誰も管理しない旧農地は荒れるに任せ、セイタカアワダチソウがびっしりと繁茂して、男の力でもってしても、引き抜くことができないくらいに生長していたのです。そこで島村さんよりトラクターを借りて、土地を掘り起こし整地を始めたのでした。セイタカアワダチソウや雑草は乾燥させて燃やし、灰を土地に還元して土壌改良剤として使ったのです。最初は空港用地への無断侵入、無断耕作ということで、空港を監視する機動隊から排除されるのではないかと戦々恐々としていたのですが、そのような気配もなく整地した約4反部のうち3反ぐらいをじゃが芋を作付けしました。 季節は3月下旬か3月初めだったと思います。じゃが芋を作付けした残りの1反を夏野菜を作付けしようとしうことで、自分の栽培したい作物を任意に作付け、とにかく三者とそれぞれのメンバーの「飲み代」を確保するべく頑張ったのです。しかし、週に一回の俄百姓の畑の管理では充分な手が届かず、じゃが芋は最低3トンの予定が、実際の収量はその10分の1の300キロくらいだったでしょうか。まともに売れるのはその内の半分で、残りはSサイズのものばかりでした。大変がっかりしたのですが、原因は少ない種芋でたくさんの収穫をしようとした定植技術のまずさにありました。「じゃが芋成金」がだめなら「大根成金」を目指そうと、じゃが芋収穫の後は、慎重に堆肥を充分に施肥し、除草と大根の葉の間引きを充分に手がけました。結果、立派な三浦大根が500本ぐらい収穫することができ、我がグルッペの店頭の収穫祭は大根セールがしばらく続き活況を呈しました。そして、日頃お世話を頂いていた方々へのささやかなお返しとして配り歩いたのでした。 ところが、満足な大根を栽培したことで、一安心したのか、それまで張り詰めていた緊張の意図がぷつんときれてしまったようで、それまで思うように休みもとれず身体の疲労を感じていたこともあり、以後「三里塚俄百姓組合」は開店休業の状態に陥ってしまいました。そんな状況の中、我がグルッペ2階の倉庫がわりに使っていたスペースをレストランとして使っても良いと大家さんからの承諾を得て、その店作りと資金集めの繁忙さの中、成田への援農の仕事も中断のやむなきに至ったのです。 次回につづく |