2003年4月号

 第4回  文:稲津恒巳
  生産者の名誉のために一言言い訳をしておきますと、「猫跨ぎ」と呼ばれた牛蒡も、育ちすぎて「大松菜」と言われた小松菜も、栽培方法がしっかりしていたためにそれほど風味は落ちておらず、また筋っぽくもなく、それなりの味がしていたことは事実でした。

 恥ずかしながら私たちの商品知識のなさと仕入れの甘さでこうした失敗談は随分ありました。ですが、流通センターとしてJACと付き合っていた私たち無農薬八百屋のグループは、最初からトマト作りの名人、キャベツ作りの名人、さつま芋作りの名人等々、安全性と自分の生産物に対する限りなき誇りと自信を持った生産者の生産物を店頭に陳列しておりましたから、お客様に一度試食して頂くと明らかに他店の野菜との“味の違い”をわかって頂け、その評価の輪が少しずつ拡がってきたのだと思います。

 そうこうするうちに駐車場の一角を占拠し、一時的・臨時の店という印象を与えていた屋台風の我がグルッペも、そのみすぼらしさに比べ、取り扱っている商品の“確かさ”に少しずつその評価と信頼を頂き、存在を知られるようになって来たわけです。そしていつのまにか「いつまで開いてるの?」という問いかけの言葉もなしにお客様と接するようになってきた のでした。

 閑古鳥が鳴き、いつたたんでもおかしくない我がグルッペが始めて迎える年末商戦、それは1997年の年末28、29、30日の3日間のことでした。それは私たち夫妻が八百屋家業で多忙な日々を体験する初めての3日間でした。

 それはいつもご利用頂いているお客様より、お正月の食料品の予約注文を頂いたのですが、予約外の注文の量に本当にビックリしたのです。当時は1日の売上げが4万〜5万ぐらいで本当にのんびりと仕事をしていたのが年末の3日間に限ってはいきなり15万〜20万の売上げを記録したわけですから、私たち夫妻にとっては、「欣喜雀躍」。2人で朝から晩までご注文の荷造りと仕分けに追われ、初めて何の迷いもなく仕事に打ち込めたことを今でも鮮明に覚えています。

 当時の我が家庭の実収入は10万円前後ぐらい、これで生活していましたから、1万円札が何十枚も手元にあるという懐の暖かさは、外気の寒さを吹っとばし、経済面ばかりでなく精神の暖かさと豊かさを獲得したような気分でした。経営母体の弱々しい店舗にあっても一生懸命頑張れば、これくらいのことはできるんだと改めて自分達の潜在能力を確認した次第でした。

 暮れの30日に打ち上げ、お正月は10日間の休み、仕事をやりきった爽快感、充実感、満足感は何事にも替えがたく、この年末の繁忙さを経験したことで、これからも八百屋で頑張っていけると自信が湧いてきたのでした。気分が違えば売れ方まで異なってくる、猪突猛進、自信という馬鹿力を持ったボクは、自分でもオッカナイくらいの存在に成長しつつあったのです(おそまきながら)。

 それまでは夫婦二人の生活を支える仕事としてあった八百屋家業が、暮れの経験を通し、事業としての八百屋業へのイメージに膨らんできたのでした。それにはもっともっと生産現場を知ろう、生産者を知ろう、商品を知ろう、有機とは何か知ろう、とその問い詰めの中で私たちがやらなければならない仕事、生産者、お客様の方々への果たすべき仕事と責任が見えてくるのではないかと思うようになってきたのです。 

次回につづく