2003年2月号

 第2回  文:稲津恒巳
 恐いもの知らずのド素人が無農薬野菜販売の店を始めたのは1977年の6月、青果類を扱うには最悪の季節でした。これから真夏に向かって湿度と温度が高まる中、店頭に並んだ野菜は目に見えて劣化していくのがわかる状態でした。前号で述べた通り、我が八百屋は駐車場の一角に丸太組で風雨を避けるため建築用シートを屋根に張った一坪の空間と4坪のプレハブ小屋で販売用の什器備品といえば、簡便なコンクリートブロックに板をわたしての野菜の陳列棚と何処かでもらい受けた加工食品用のスティール陳列台があるだけで、それはモー素朴というよりはみすぼらしいと表現するほうがピッタシの風景だったのです。

 “お客は来ない”“野菜は傷む”。経営者は汗をフキフキグッと我慢。トマトは赤い顔がますます赤く沸騰し、ニラや小松菜は暑さに耐え切れずトロケて自然溶解。皿盛りしたきゅうり・ナスはしなびてフニャフニャ。緑のピーマンは赤い怒気で私をにらむ。4、5日前に仕入れた西瓜は、自然発酵して酸っぱくなってしまい、それはそれは僕にとっても悲しい気分。

 トホホッー……ト――――。総じて野菜の諸君・果物の諸君からの悲鳴と怒気には、待遇改善の要求をつき ツけられているようでしたが、成すスベを知らず、途方に暮れていました。

 現実に改善してやりたいと思っていても、毎日の売上が2万、3万(雨が降れば5千円前後)ですから、そのうえ売上よりも支払いの金額のほうが多い日があったりでは、いくら優秀なボクでも、モー万歳……白旗を掲げるまであと何日か、と予想したことも何回もありました。こうした失敗、失敗の連続の中で人間は学んでいくものなんだとつくづく思った次第でした。

 それでも我が夫婦の克苦奮闘、奮励努力は、暑さを耐え抜き、金銭苦を耐え抜き、生き延びてきました。無農薬野菜販売の看板にひかれて、好奇心と同情心の旺盛なお客様が一人、二人、と増えて、創業時の12月には、売上も月間150万円になり、二人が暮らしていくには、質素ながらも充分な収入が得られるようになったのです。

次号へ続く…

(注釈)

 当時は、中央線に点在する八百屋グループの共同仕入センターとしてJAC物流センターがありましたが、それぞれ創業して間もないこともあり、流通そのものが未整備で、我が八百屋グループの仕入れは、週に3回、月水金を仕入れ日として、青果加工品を二日間にわたって販売していたのですが、鮮度保持する設備什器、冷蔵庫を持てなかったために、夏の時期には本当に苦労したのです。

次回につづく